店長プロフィール-転機を経て

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一変した生活

この事故から以降の私は、車椅子生活を送る次第になったので、生活はかなり変わりました。やがて病院から退院し、自宅で暮らす段取りを病院のケースワーカーさんと相談するのですが、自分の家で、いままで通りに暮らすには対応すべきことがいくつあることがわかってきます。すぐさま対応できるものもあれば、工夫と時間を要するものも見つかり、困ったことになりました。

当時の自宅は車椅子生活者に対応していませんでした。玄関の土間と廊下床は、30センチも段差があり、トイレは中も入り口も狭く、風呂場には車椅子で入ることなど到底できない位置にありました。

実家は浴槽など設備機器の販売と設置をなりわいとしていたのですが、車椅子生活に適した浴室をつくろうとしたとき、会社の誰もがどのように改修すべきかわかりません。

家業は私の曾祖父が江戸期から明治期にかけて興した木風呂の製造業が始まりです。その後、1960年代に大阪万博の景気で沸く大阪北部・箕面市で店舗を構えておりました。浴室の工事には長年の経歴があるにもかかわらず、障害者に対応する仕事のご依頼をいただいたことがなかったからです。当社では、病院のケースワーカーさんや物の本を頼りに自宅の改修にかかりました。

玄関には電動の昇降リフトを設置しました。本来は車椅子用のリフトを設置すべきでしたが、スペースが無く、かなり小型のリフトが必要だとわかりました。仕方なく、荷物の積み下ろし用のリフトを探しだし玄関に設置をしたのです。

トイレと浴室は、それぞれ狭すぎるため個別の空間

浴槽は、上端が洗い場の高さに近くなるほど深く沈めました。いわば温泉などの大浴場にある浴槽に似たものです。

居間など畳敷きの部屋は、毛の短い化繊カーペットを敷くなどの工夫をしました。車椅子で畳の上を通ると、キャスター(前輪)で畳表がちぎれてしまい穴さえ開くため、やむをえない処置でした。

わが家は二階建ての住宅でしたが、この程度の改修で二階へは上がれません。それには家庭用エレベーターが必用でしたが、購入する資金も、設置する空間もなかったのです。この家はその7年後、建て替えのために取り壊したのですが、私は結局、二度と自宅の二階へあがることは成りませんでした。

それまで暮らしていた家にこのような改修を加えることで、私は、何とか住み続けることができるようになります。父、母、妹には多くの苦労をかけてしまいそのことを考えるといまでも胸が痛いくらいです。

車椅子生活にも慣れたのちに家業であるこの会社で、私は働きはじめました。当初は、商品の受発注対応担当の業務です。扱う商品は浴槽やキッチン、洗面台、トイレ、ガス器具などの住宅設備機器で、それを現場施工担当者に手配するのも重要な仕事でした。

箕面の地での営業が当社も二十年超えるようになると、ご贔屓いただくお客様に、ご高齢の方が増えつつありました。人間は齢を重ねると、身体機能にどうしても差し障りがでてくるもので、当社も古いお客様からいただくお声に、「年老いた家族が使いやすいようにお風呂場を工夫したい」と云うご要望が、ちらほらと混じるようになっていました。

当時はバブル景気の頃でしたから、キッチンやお風呂も豪勢な仕様の製品ならばあまたで探す必用などありません。メーカーは栄華を誇るかのように新製品を次々と発売しました。そうとはいえ、高齢者や障害者の使いやすさに重きを於いた製品はまだわずかで、謂わば知る人ぞ識るような存在です。

バリアフリーという言葉が世に現れてさほど間もない頃でしたので、メーカーでも販売店でも、その意識は現在と比べれば至って低いものでした。障害者や高齢者対応が名ばかりだったとは言い過ぎでしょうが、本腰をいれて取り組んでいたとは認めにくいと思います。

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